スイセンノウをあなたに

何が起こるかは わからないなんてさ

関心

 

このブログを書く予定はなかった。これから書くことは、いつかスペースか何かで軽く触れて終わりにする予定だった。でも、FFを含む何人かが同じテーマについて話しているスペースを聴きながら、形としてきちんと残しておこうと思った。

 

映画『成功したオタク』の感想(注意:ネタバレ有)と隙自語・思考の整理がメインで、普段のブログとはかなり毛色が異なる。それでも、このブログの記事として書いておこうと思う。

映画「成功したオタク」公式サイト

 

思いのほか長くなってしまったので、見出しをつけて分けてみた。興味があるところだけでも読んでくれる人がいたら、とても嬉しい。

 

 

映画を観ながら考えたこと

わたしは基本的に自分のことを好きじゃないけれど、オタクとしてのわたし自身は決して嫌いじゃなくて、好きな人たちはもちろん、好きな人たちの存在を通して出会ったひとや機会や物事が大切で…そんなことを考えながら映画を観ていた。

 

わたしはわたしの好きな人たちに対して、神格化するには知らなすぎるし無かったことにするには知りすぎたと思う。わたしは彼らの名前も声も知っているけれど、彼らはわたしの名前も声も知らない。

あくまで他人であるはずの好きな人たちは、わたしの人生を語る上で欠かせない存在となりつつある。その好きな人たちに何かあったら人生の根幹が揺らぐんだろうかと思ったこともあるけれど、別にきっかけはさておきその先の行動はわたし自身の選択だと、今は思う。

 

知識を得るって?

まず前提として、得たい知識にアクセスできること自体が恵まれている、という意識は明確な実感としてある。わたし自身はそういう意味で(あえて言うなら)とんでもない特権階級なんだろう。情報精査の方法を学校教育の一部として習い、手軽に情報にアクセスできる自分専用のデバイスが手元にある。そのあたりの格差が解消されてほしいと切実に考えているし、恵まれているという自覚の上で知識を得ることを億劫がりたくないと思う。

 

何事も学び切ることなどないと実感する日々だけど、知識を得続け、アップデートしつづけるということは自分の周りにいる人たちへの一つの誠意だと思う。だからこそ、わたしは何かマイナスなことが起きたりその報道に触れたりしたとき、わりと徹底的に調べてみるタイプだ。

知識を得るということは、土壌をつくるということに近いと思う。良い土がなければ良い植物が育たないように、知識がなければそこから発展することは無に限りなく近いだろう。知識があるから生きることができるし、問題を認識することができるし、理不尽に対して抗議することができるし、自分自身をまもることができるし、未来のために声をあげることができる。

 

では、知識があることでなんだって解決できるんだろうか。知識さえあれば、誰も傷つけずに済むんだろうか。わたしは今大学で学んでいるけれど、知識を得れば得るほど、現状の限界をつきつけられているような気分になることがある。所属している支援団体で新規採用のお手伝いをしている中で、熱意も知識も持ち合わせているのに支援員としてうまくいかないケースを多々見てきた。知識を得ることはベースとして間違いなく必要だけど、そこをゴールにするのはあまりにも短絡的で危ういと感じる。

 

興味・関係がある話題なら話ができる?

最近、アメリカの大学の軍需産業加担に関する学生と大学の抗争の情報を追っている。日本で報道される分では飽き足らず、BBCやCNNの報道も見ている。この熱量は元ルームメイトがその抗争の渦中にいるということがかなり関係していて、その元ルームメイトの存在が無ければここまで関心を持つことはなかっただろう。

 

とは言いつつ、そのことについて「話せる」かと問われると、わたしの場合は話が変わってしまう。

ジャニーズ事務所の性加害問題がそこら中で報道されていたあの時期、TLを流れる数多の意見に触れていながら、なかなか自分自身の意見を発信するに至らなかった。ジャニーズ事務所に所属していた人たちはこの数年わたしの関心ごとの相当な上位を占め続けていたというのに。

 

わたしは、知識がないことについてある程度知識を蓄えた実感を得られるまで喋れない傾向にある。最初から何も間違えてはいけない気がしてしまうし、間違いを恥じる気持ちがあまりにも強い。100%間違えないことは不可能なので"考えようとし続けること"に重きをおくべきであると頭ではわかっているものの、どうしても自分の間違えを恥として見てしまう。他人の間違えも意見が変わることも気にならないのだけど。

映画に出ていたオタクたちも、今後意見が変わることだってあるだろうし、自分の発言を後悔する日だって来るのかもしれない。それでも映画という思い切り開かれた場で意見を発信していた。その姿は眩しかった。

 

今言える、言いたいことを、なけなしの勇気を振り絞って残しておく。

性加害/性被害に限らず、加害/被害問題はそれを問題として認識することが鍵になる。正しい情報や経験に基づいた情報を発信するということは、誰かが問題を認識する手助けになる。だから、事務所は、もっと性加害/性被害についての情報を発信してほしい。

 

コミュニティと心理的安全

映画の中で、犯罪者になった元推しのグッズを見せ合いながら語るシーンがとても印象的だった。大学の実習中にピアサポートを見ているときの気持ちと似ていた。

あえて堅い言葉で表現するなら、「心理的安全の担保された空間」が映されていた。否定されないとわかって(知って)いて意見を一旦受け止めてくれると信頼をおく空間で、思う存分怒り、悲しみ、いくら傷ついても今後も無情に続いていく日常を思うこと。

 

Xやマシュマロは匿名ツールである。鍵垢でない限り閉鎖されていないし、いわゆる「顔の見えない」関係性。でも、先日のスペースは確かに対話だった。

対話のやり方 | Q | NHK for School

オンラインであり、好きな人たちが共通しているという一点突破に近い形でランダムに集められたコミュニティでの対話。オタクは多様であるからこそ相手と自分自身は違う人間であると線を引いた上で話し、オンラインであることで実体を持たず円になれたのかもしれない。

 

これって諦めなんだろうか

組織や社会、場合によっては個人に対しても、意見をするというのがとても億劫に感じることがある。

理由は様々で、前に言っても話を聴いてすらくれなかったという体験だったり、この人に話すのはなんとなく怖いという漠然とした恐怖感だったり。そうして押し込めてきた意見たちは、また別のところで別の形で発散されることもあれば、ずっと燻っていることもある。

 

例えば、わたしは実習中によく別の学科と間違えられる。一昔前まで、わたしの所属する学科は男性が圧倒的な大多数で、同じ場所にいる女性は別の学科の人がほとんどだったことが影響していると推測できる。1年生の頃は悪意を持ってのものかどうかを考えたこともあるけれど、今はもう何も考えず笑顔で訂正している。同じ人から何度も続けて間違えられたときは支障が無さそうなら、受け流している。

これらは諦めているということになるんだろうか。

 

少し話は変わるが、先に述べたようなことがあったとしても、個人に対して腹を立てることができない。差別は個人ではなく社会の構造に問題がある、という考え方を知って数年が経った。わたし自身も多元的に見ればマジョリティとマイノリティを併せ持っていて、その中で無自覚的に差別や格差構造に加担してしまっているのだろう。そう気がついてからは、どす黒い気持ちは個人でなく社会に向くようになった。似たような話は今年度の東大の式辞にも出ている。

令和6年度東京大学学部入学式 総長式辞 | 東京大学

 

社会は巨大だ。想像もできない、一生触れない部分があり、未知数の個人の集合体だ。そこに向かって意見するなんて、怖い。未知数であるということへの解像度が上がれば上がるだけ、どんどん怖くなっていく。周囲の人を傷つけないように気を配り、自分が加担してしまっている構造を考えつづけることはしていきたいけれど、できることなら意見も指摘もせずにひっそり生きていたい。これも最近の若者らしい無関心なのだろうか。これもまた、諦めなんだろうか。

 

これを諦めと言われたら、それはそうなんだろう。だって何も表出させていないから。やる前から諦めるなと誰かから叱られ、「これだから今どきの若者は」とため息をつかれるのだろうか。

「スンッ」より「はて?」で世界を開け 「虎に翼」作者インタビュー:朝日新聞デジタル

世界を開き続けられるだけのエネルギーを持ち続けられるんだろうか。今のところ、あまりそういう想像ができない。

 

とりあえず、明日起きるために眠りにつく人を好きでいる限り、わたしは明日を見ようと思えるので、もう少し考えつづけて、また誰かと話せたら良いなと思う。